正義感という感覚について

『正義感が強い点が良いと思って採用したい』『正義感が強み』

自分の担当人事にも、上長にもそう評価されている。自分では正義感が強いなどと思ってもいなかったし、そう言われて納得もしていなかった。

 

正義感が強いってなんだよ?どういう意味だよ?初めて言われたのは採用時。内定をもらい、承諾するか迷っていると正直に担当人事に伝えたところ、電話越しにそう言われた。一体この人は、私の人生のどういうエピソードから、正義感があると感じたのか。これぞ、まさにジョハリの窓という奴なのだろう。私の正義感ってなんだ。気になって気になって仕方がない。つい3日前までは、自分の『正義』という言葉の定義を理解していなかった。

 

とある会議での上長が放った一言で、自分の正義が何かがわかった。『現状と理想とのギャップを埋める為に行動しよう』、そんなニュアンスの言葉だったかな。その時、思わず私はこれだと思った。『自分にとって理想の状態が正義』だと思った。

 

手元にあったマイノートに、力強く、且つ素早く書いた。今、その文を見返した。きっと、その言葉に対するリアクションが大きかったことを自分でも自覚した為に、同期の目が一斉に私ノートに向いた気がしたから、ちょっと恥ずかしくなって、サっと書いたんだろうという筆跡が残っている。

 

なるほど確かに、今まで悩んできた事柄のほとんどが、自分の正義感の強さだったのではないかと腑に落ちてしまう。私の正義の定義が『自分にとって理想の状態』だとしたら、そりゃあ自分にも他人にも厳しい。思えば、小さい頃から『正義』感が強かった。というのも、理想の状態と向き合うことから私の人生は始まったからだ。理想の状態とはお手本—つまり、書道で使うお手本だった。

 

4歳から書道を始めた。私は長女だから、これでもかというくらいに過保護に愛された。母は、娘には自分のようにならないで欲しいという気持ちが強く、自分の人生でやらないで後悔したことを娘に習わせた。

 

私は幼少期、毎日毎日お手本という正義に、理想に向き合った。そして、その理想どおりの字に近づくために、何度もなんども先生に添削してもらい、何枚もなんまいも書き続けた。理想と同化するまで。

 

理想と同化する感覚が好きになった私は、まんまと完璧主義者として成長した。できている状態が当たり前。徹底的に「できない」を潰す日々。受験勉強の為に通っていた塾で、親しかった友達が勉強ができないと嘆いていたから、私は『なんでできないの?』という言葉をため息と一緒に口から出した。すると友達は次の日から喋りかけてこなくなった。その友達と親しかった友達も、私に喋りかけてこなくなった。こうしてクラスに一人も友達がいなくなった。

 

自分の理想の状態、正義を押し付けてしまった。そう思った。その日から私は、もう自分の価値観を他人に押し付けるようなことはしない。そう誓った。生きているみんなが正しい。そう考えるようになった。要するに、他人に甘くなることができるようになった。ちなみに、その友達とは高校時代に心から謝罪して、和解しているのでご安心を。

 

こうして、高校・大学に入ってからは、多様な価値観を大事にしたいと思って4年間、特に後半2年間はそう生きていた。

 

それなのに、社会人になり仕事を始めた途端、自分の正義が仲間との関係を悪くしている気がする。理想に近づくためには、改善の積み重ねが必要だ。1ミリたりとも足りないなんて状態ではいけない。そういう考えが私の中にはどうやら在るようだ。所属しているチームも自分だと考えているために、ちょっとした悪—現状が気持ち悪いと感じてしまう。それは事業部に対してもそうだ。

 

なんて最低だ。仲間は現状を良しとしている訳ではない。むしろ改善したい気持ちでいっぱいで、週末だってブルーな気持ちで帰っているはずだ。当然、自分だってできていないことだってある。こうして、私の自己嫌悪の幕が開けたのである。